
世界規模の絆を生んだ
サンフランシスコ大地震
1906年4月18日、午前5時12分の早朝に起きたサンフランシスコ大地震は、20万人以上の市民から住む家を奪いました。マグニチュード8.3。サンフランシスコ市内は3日間燃え続け、最終的な被害は死者約3000人。人口40万人の都市にとって、それはあまりにも大きな被害でした。
街の崩壊によってサンフランシスコ―東京は音信不通となり、日本の外務省にその一報が入ったのは4月21日。すぐに日本からの支援策が検討され、同時にアメリカへ支援受け入れ体制の可否が確認されました。当時の微妙な世界情勢では、他国の支援を断る可能性もあったからです。実際にセオドア・ルーズベルト第26代大統領は4月20日の時点で、救援と復旧について他国の支援拒否を決定していました。しかし日本は粘り強く交渉を続け、たとえアメリカ政府が受け入れを拒否しても、サンフランシスコ市が受諾する道を探っていきます。
並行して日本国内では日本赤十字社を通じた義援金募集と病院船派遣が閣議決定。これは日本政府初の海外緊急援助でした。さらに明治天皇が20万円の下賜を申し出、それに刺激された財界からはすぐに15万円の義援金が集まりました。そして日本は政府として50万円の見舞金をサンフランシスコ市に贈ることも決定します。これは当時の国家予算の1000分の1にあたる金額でした。
5月3日、カリフォルニア州が外国からの義援金受け入れを発表します。これはサンフランシスコ市の意思を受けたもので、日本の積極的な申し入れが強く影響したといわれています。これをきっかけにグァテマラ、カナダ、ニュージーランドなど各国から義援金が到着。日本の義援金は、その中でももっとも大きなものでした。やがて徐々に、アメリカ政府も国として義援金を受け入れるようになっていきます。大地震によって現代の100億ドル以上という被害を受けたサンフランシスコ市は、そうして世界との絆によって復興していく最初の都市となったのです。
第二章
国家間支援の枠を超えた
関東大震災食料支援
大正12年(1923年)9月1日11時58分、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の関東大震災は、その巨大な第一震で東京・横浜のほとんどを破壊しました。最終的な死者・行方不明者は10万人以上。世界的にも未曾有の大災害に、関東は突然襲われたのです。
駐日アメリカ大使サイラス・ウッズはそのとき大使館で執務中でした。第一震で大使館は倒壊、直後の火災でほとんどが焼失したといいます。それでも奇跡的に人的被害がなかったことを確認したウッズ大使は翌9月2日、日本海軍を通じてヒューズ国務長官に一通の電文を送ります。
────アメリカ人は全員大丈夫と思う。大使館は全壊したが大使館員に怪我人はない。食糧事情が非常に悪い。すぐにフィリピンから食料を送れ────
事態を知ったアメリカ合衆国第30代大統領カルヴィン・クーリッジはすぐに大正天皇へ見舞電報を送り、同時にアメリカ関係機関に3つの指示を出します。まず陸海軍を出動させること。次にアメリカ船舶を救援に活用させること、そしてアメリカ赤十字による医療団派遣と救援資金集めをすること。大統領声明を受けて市民も積極的に動きます。1906年のサンフランシスコ大地震で即座に義援金を送った日本への恩返しに、全米から1000万ドル以上の義援金が集まったのです。それは大統領が呼びかけた目標額の倍以上でした。
やがて食料や衣料品を積んだアメリカ船舶が次々に横浜港へ到着します。9月10日にはフィリピン駐屯基地から1万3000トンの物資を載せた輸送船が出航しています。これは基地に最低必要な3ヶ月分の備蓄を残し、他はすべて送るという驚くべき決定によるものでした。
アメリカからの救護団は、まず倒壊してしまった東京の聖路加病院跡地と横浜の山下桟橋に仮説病院を設置します。記録によるとその規模は『治療所52、野戦病院13、野戦予備病院1、兵站病院1』という莫大なものであり、しかもすべてが寄贈されました。病院食にはパン、スープ、ビーフシチュー、キャベツ、ジャム紅茶などが出され、その様子を取材した記者は『日本の洋食屋ではたべられぬ御馳走』と少し楽しそうに書いています。
関東大震災で日本には世界中から支援の手が差し伸べられました。その中でもアメリカからの支援は際立っていたといえるでしょう。それまでの国家間支援の枠を大きく超えた空前の支援規模は、サンフランシスコ大地震での絆から生まれたのです。そしてまた巨大災害時の緊急支援策としては食料・医療が最重要である。このとき世界がそれを確認し、絆はまた強くなっていきました。
第三章
191の国と地域が支援する
東日本大震災
平成23年(2011年)3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生した東日本大震災は、地震と津波によって広範囲に壊滅的な被害をもたらしました。マグニチュードは日本観測史上最大の9.0。一年経過時点での震災による死者・行方不明者は約2万人、38万戸以上の家が壊れ、政府は総被害額を16兆から25兆円と試算しています。この災害に、日本国外の191の国と地域、さらには41の機関が支援を表明しました。28の国・地域・機関からは救助隊が、53の国・地域・機関からは救援物資が届けられました。
中でもアメリカ軍による『トモダチ作戦』は、その迅速な実行力で大きな役割を果たしたといえるでしょう。震災翌日には空母を派遣し、艦載ヘリコプターが近隣から寸断された多くの被災地域に物資を届けました。物資の多くは食料と毛布です。罹災直後の東北で今日を生き、明日の復興へと繋げるためには、まず飢えと寒さの問題を解決することが最重要。トモダチ作戦以外でも、食料支援は即効性のある緊急援助として各地で実践されました。世界中から届けられた膨大な食料は、いまや誰にもその全体を把握できません。米国食肉輸出連合会は7月末までにアメリカン・ビーフ55000食、アメリカン・ポーク78000食の計133000食を被災地に届けています。こうした独自の取り組みが、被災各地で今も行われているのです。 サンフランシスコ大地震、関東大震災を経て、日米の国家間支援はその絆を強くしてきました。
東京都心で今後4年以内に震度7クラスの地震が起きる可能性は70%という予測があります。2032年までに次のサンフランシスコ大地震が起きる可能性は62%という予測があります。世界中に大災害の危険があり、誰にもそれを止めることができないのなら、我々はその絆を日々強くしていくしかないのです。
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