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老将ケプロン、北海道開拓に尽力す~未開の地に農・畜産・漁・鉱業を立ち上げろ~

老将ケプロン、北海道開拓に尽力す~未開の地に農・畜産・漁・鉱業を立ち上げろ~ / ホーレス・ケプロン合衆国農務長官を辞して来日

北海道の歴史を語るとき、ホーレス・ケプロンの存在を欠くことはできません。蝦夷地からその名を変えた明治初期、すでに老いていたこのアメリカ人の奮闘によって、北海道は開拓されたのです。
ウィリアム・S・クラーク明治初期の北海道でアメリカ人といえば、多くの日本人はクラーク博士を思い出すでしょう。札幌農学校の初代教頭として「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉が有名ですね。しかし、そもそも札幌農学校を誕生させたのがケプロンであり、彼の進言によってクラーク博士は迎えられたのです。


黒田清隆 明治の世になり蝦夷地の開拓を重要視した政府は、黒田清隆を開拓次官に任命して北の大地の大開拓を命じます。大任を負った黒田がまず取りかかったのは、開拓大国アメリカから専門家を招聘することでした。明治2年(1869年)にアメリカへ渡った黒田は、グラント大統領に熱い胸の内を直談判します。そうして大統領から紹介されたのが農務長官のケプロンでした。
北海道に効率的な農業・畜産業・漁業・鉱業を広めたい。嘆願する黒田の熱意にケプロンは共感します。けれど実際に日本へ行ってくれそうな適任者は見つからない。「ならば」と最終的にはケプロン本人が日本行きを決意しました。このときケプロン67歳。アメリカ合衆国の現役農務長官が、職を辞してまで異国の開拓に参加するという前代未聞のプロジェクトがここに始まりました。


維新の侍と南北戦争の老将

ホーレス・ケプロンはマサチューセッツに生まれ、ニューヨークで育ちました。織物工場を経営する裕福な実家を手伝いながら、自身も20代で工場を建設し、一時は2500人の従業員を抱えます。優れた工場経営者である一方、1852年にはメリーランド州の義勇軍少佐に任命され、アラモ砦に近い保護区でネイティブアメリカンの説得という困難な仕事を成し遂げました。その後は農牧場を経営し、とくに肉牛の優良生産者として名を馳せます。1861年に勃発した南北戦争では58歳ながら大佐として北軍騎兵隊を指揮し、重症を負いつつも最後まで戦い抜きました。その功績は後に義勇軍名誉准将に叙せられたほど。
優れた工場経営者であり農牧場経営者であったケプロンが農務長官に任命されたのは1867年。すぐに化学部、植物部、獣医部を新設し、ペリー艦隊が持ち帰った日本の植物標本などもその管理下に入っています。老いてなお意気軒昂なケプロン。そこへ日本から熱き若武者の黒田清隆がやってきたのです。

幕末の動乱を箱館まで戦い抜いた薩摩藩士と南北戦争の老将は、どこかに通じるものがあったのでしょう。ケプロンにとっては事実上3度目の義勇軍出征です。任務の壮大さと年齢を考えれば、それはまさに命懸けの決断だったのです。

来日にあたってケプロンは果物の種や苗を大量に用意します。当時の日本で果物といえばミカンとブドウと柿が中心でした。つまり、いま私たちが食べている国内産フルーツのほとんどは、ケプロンによって持ち込まれたものなのです。


アメリカを彷彿させる広大な農地

北海道の広大な農地風景1871年8月、ケプロンは横浜に降り立ちます。まずはアメリカから連れてきたスタッフ2名を北海道に調査派遣し、自身は東京に3つの官園と農学校を設立しました。官園はアメリカから輸送されてくる動植物の受け皿であり、品種改良などの研究施設。農学校は開拓スタッフの訓練施設であり、これが後に札幌へ移転して札幌農学校となりました。翌1872年5月に北海道入りしたケプロンは、すぐさま精力的に開拓を進めていきます。なにしろ未開の地を豊穣の地にするため招聘された総合プロデューサーです。新種のイチゴやリンゴ、それまで日本にはなかったトウモロコシやホップなどを次々に作付したかと思えば、同時に首都札幌の選定や函館―札幌間の道路建設など都市行政についても力強くリーダーシップを発揮します。

馬を使ったアメリカ式耕作技術 米のできにくい北海道でケプロンは小麦を作り、パンと牛肉の食事を奨励することで酪農の循環を定着させました。牛ではなく馬を使った耕作や積極的な機械の導入など、アメリカ式農業法を徹底的に指導した結果、北の大地にはアメリカを彷彿させるほど広大で整然とした農地が出来上がったのです。
政府による早急な鉱山開発を批判し、時間をかけた民間開発の重要性も主張しました。そうして1875年5月までの4年間を北海道開拓に捧げたケプロンは、帰国後も尽力を継続します。北海道の豊富な漁業において塩漬けなどの加工品輸出を提唱し、1877年にはユーファム・ストワーズ・トリートを石狩に送り込みました。トリートは当時のアメリカ水産物加工業界屈指の技術者であり、彼の指導によって北海道名物のサケ缶が誕生したのです。トリート指導の下、石狩缶詰所が日本初の缶詰工場としてサケ缶第一号を作った10月10日は、いま『缶詰の日』になっています。

1967年、北海道百年を記念して札幌の大通公園に北海道開拓功労者顕彰像が建立されました。台座を含めれば6メートルという大きな立像の1人は黒田清隆。そして左手に立つもう1人はホーレス・ケプロン。
眼差しに不屈の意思と深い知性を漂わせた2人の男は、いまも北海道を見守っているのです。