もっと知りたい食の安全...「農薬の残留規準ってどうやって決めるの?」などアメリカの食に対するみなさんの素朴な疑問にお答えします。

vol6 安全の費用

安全医学 (Journal of Medical Safety) 第1巻 第1号 2004年3月より抜粋・加筆(2008年11月)

唐木 英明
東京大学名誉教授、日本学術会議会員

はじめに

BSE(牛海綿状脳症)は1986年に英国で発生し、その後世界へと飛び火をしましたが、発症した牛の97%以上は英国に集中しています。極めて英国に偏った牛の病気といっても過言ではありません。牛の病気であるBSEが大きな話題になったのは、1996年に英国保健相が新型ヤコブ病の原因がBSEである可能性を認めたときからです。現在までに世界で209名の新型ヤコブ病患者が発生しましたが、そのうち167名は英国であり、残りの42名の多くも英国在住歴があるか、英国の汚染食品を食べていたと考えられています。ですから、新型ヤコブ病もまた極めて英国に偏った病気であるといえます。しかし、死に至る新型ヤコブ病がBSEと同じように急速に広がるのではないかという恐怖心が英国だけでなく、世界中に広がりました。日本でも2001年9月に最初のBSEが発見され、その対策の不手際が厳しく非難され、結果、食品安全委員会が発足しました。その後2003年にはカナダと米国において1頭ずつの感染牛が発見され、2005年12月まで米国産牛肉の輸入は禁止されました。日本と米国の間で「安全と安心」に対する考え方の違いから、今でもその輸入は若い牛由来の牛肉に限定されています。ここでは、BSE問題に関連して、リスク分析の立場から世界と日本の食品安全についての考え方の違いについて考えます。

BSE対策

BSEの原因は異常プリオンタンパク質(以下プリオン)で、感染牛の脳や脊髄などの「特定危険部位」に蓄積します。これを含む肉骨粉と呼ばれる飼料を牛に与えると20頭に1頭の割合で発症します。英国では1988年に肉骨粉を全面禁止し、この対策が功を奏してBSEは1995年頃から急速に数を減らしています。このような経緯から動物検疫の国際機関である国際獣疫事務局(OIE)は、肉骨粉を使用する際には牛用の飼料に混ざらないようにとの勧告をし、ヨーロッパの他国、米国、カナダ、日本もその勧告に沿った規制をとっています。

新型ヤコブ病対策

新型ヤコブ病の原因もまたプリオンが蓄積する「特定危険部位」を食べたことであり、とくに牛の脊椎の周りに付いた肉を機械で圧力をかけて分離回収した「機械回収肉」を使ったハンバーグなどのひき肉製品が原因といわれています。機械回収肉には特定危険部位である神経節や脊髄の一部が混ざる可能性があり、これにプリオンが含まれていたと考えられます。ヨーロッパ各国は脳や脊髄と共に機械回収肉も禁止し、カナダ、米国でも国内でのBSE発見を受けて禁止しています。日本は以前から機械回収肉は使っていません。

牛から人へプリオンが伝達するには「動物種の壁」を越えなければならないので極めて稀です。英国では18万頭ものBSE感染牛が見つかりました。さらに約100万頭の未発症の牛が存在し、その半数以上が食用になりました。当時は特定危険部位を取り除いていなかったので137名の新型ヤコブ病患者が発生してしまいましたが、この割合で行くと、特定危険部位を取り除かない感染牛1頭が食用になったとき、新型ヤコブ病が発生する確率は1/2000億になります。BSEが発見されるまでの日本では、最大で数十頭の特定危険部位を取り除いていない感染牛を食べてしまったかもしれませんが、英国の例から考えて、日本で発生する可能性がある新型ヤコブ病患者は0.05人となります。BSE発見後は特定危険部位を取り除いているので、仮に牛肉に0.1%の特定危険部位の汚染があったとしても確率は1/200兆に減ります。特定危険部位除去や飼料規制などの対策によって発生数は年々減ってきていますが、いまだに毎年60頭以上のBSE牛が見つかっている英国でさえ新たな新型ヤコブ病患者が発生する可能性は0.0003人となります。特定危険部位を取り除くことで新型ヤコブ病感染の危機は去ったといえます。

日本と米国の違い

このようにBSEと新型ヤコブ病の感染メカニズムと予防についての科学が解明され発生が急速に減ったことにより、ヨーロッパにおけるパニック状態はなくなりました。2001 年以来BSEが発見されたいくつかの国で、世界を驚かせるようなパニックがおこったのは日本だけです。カナダや米国では牛肉の安全性について心配する報道はほとんどなく、国内の消費は減っていません。BSE発見の前、日本は米国やカナダと同程度の対策をとっていましたが、BSE発見の後はパニック対策もあってヨーロッパの国々以上に厳しい全頭検査を実施しました。

それから2年後に発生した米国のBSEに対して、国民の反応も政府の対策も当時とは少し変わりました。多くの人々は牛肉に以前ほど強い恐れを持たず、牛丼チェーンや牛タン料理店の客足もそれほど減りませんでした。むしろ牛丼がなくなることを惜しむ声もありました。またBSE発生前に輸入した米国産牛肉は、国産牛で行っているような検査をしていないにもかかわらず、厚生労働省は「脳や脊髄など感染リスクの高い特定部位が混入している恐れがない限り感染のリスクは高くない」として回収を求めず、国民もこれを拒否しませんでした。この対応と矛盾するのが輸入再開の条件として当初日本政府が求めた「全頭検査」です。検査はBSEの広がりや対策の効果を調べることが目的で、国際基準では「生後30ヶ月以上」の牛の「抜き取り検査」で十分です。

日本でこのような全頭検査を開始した経緯を振りかえると、BSE発見直後に厚生労働省は国際機関OIEの基準を上回るヨーロッパ並みの措置として、生後30ヶ月以上の牛を「すべて」検査することにしていました。しかし報道によれば自民党が「風評被害を防ぐ対策が必要」として坂口厚生労働大臣に申し入れたほか、武部農林水産大臣も「検査した牛肉としていない牛肉が並ぶことは消費者に不安を与える」として全頭検査の必要性を繰り返し表明し、その結果、消費者の不安を解消するために若い牛を含む全頭検査に踏み切りました。そして、その後検査があたかも「安全確保の切り札」であるような伝説に変わっていったことはご存知のとおりです。

科学的には根拠がないものの、このような措置により狂乱ともいうべきBSEパニックが収まったのですから、「全頭検査」にはそれなりの意味はあったのかもしれません。しかし、このような世界的には通用しない国内向けの対策を、科学的根拠を重視する米国やカナダにも押し付けようとしたことで牛肉再開輸入交渉が難航しました。結局、2005年12月から20ヶ月以下の若い牛由来の牛肉と一部内臓製品に限り米国とカナダからの輸入が許可されました。その後2007年に米国は国際機関OIEによって月齢に関係なくすべての牛肉を輸出できる国として認定されましたが、いまだに輸入条件の緩和に至っていません。日米の交渉が長期化する根底には食の安全と安心を巡る基本的な考え方の違いがあります。

ゼロリスクの夢と費用の計算

食の安全について消費者に質問すると、ほとんどの人は「少しでも危険なものは食べたくないし、そんなものを売るのは間違っている」と答えるでしょう。しかし、このような「ゼロリスク」の考え方に立つと、食品を「危険なもの」と「安全なもの」に二分することになります。そして安全なものには政府が「安全マーク」と貼り、危険なものは回収と廃棄を命じ、生産を禁止するということになります。単純明快でわかりやすく、そうあるべきだと誰もが感じます。「全頭検査」はこのような考え方に基づくもので、国・地方自治体が「検査をした結果、合格」という「お墨付き」を出し、国民は「それならBSEでないから安全で安心」と納得する。見事なゼロリスクの構図です。

しかしこの話には落とし穴があります。検査でBSE感染が発見される牛の大多数が生後30ヶ月以上ですが、これは年をとってからBSEに感染する牛が多いためではありません。多くは子牛のときに感染するのですが最初はプリオンの量が少なく、長い年月をかけて次第に特定危険部位で増加・蓄積し、ついに発症するのです。しかし、プリオン検査の精度がそれほど高くないために、検出できる量以上のプリオンが蓄積されていないと検出できず、検査結果は白になります。例えばプリオンが100ならば黒、99なら白となります。ですから「検査結果が白」ということは「BSEに感染していない」ことを必ずしも意味していません。ひょっとすると私たちは検査限界をわずかに下回る感染牛を食べたかもしれません。しかし、特定危険部位さえ取り除けば新型ヤコブ病になる恐れはありません。また特定危険部位でさえ十分な量のプリオンが蓄積していないし、そもそも感染の可能性は非常に低いのですから食べても安全でしょう。

「BSEにはまだ分からないところがたくさんあるから怖い」という声もあります。確かに「わからない」ということが私たちの不安を大きくします。たとえば、生後24ヶ月以下の牛にもBSEが見つかりました。また感染経路の特定も難しく、米国も感染の可能性のある牛の動きをつかみきれないまま調査を完了しました。もちろん科学の進歩のためには研究を続けて謎の解明に努力をすることが必要ですが、新型ヤコブ病が発生する確率は極めて低く、特定危険部位を完全に取り除くことでその可能性はさらに低くなるという事実は変わりません。ですから、まだ分からないことがあるといって怖がる理由はないのです。

先に述べたとおり、検査はBSE対策の効果を知るためであって安全のためではありません。理論的には30ヶ月以上の牛の抜き取り検査でも十分です。しかも検査で白黒を決められないのですから安心にはつながるはずがないのですが、その事実がなかなか受け入れられません。「検査をしないことは、BSE感染牛の肉を食べろということか」という苦情がでます。そして「感染牛の特定危険部位が少しでも付着していたらどうなる」というお叱りになります。しかし、現在までに18万頭以上ものBSEが発生している英国でも特定危険部位を取り除くことで新型ヤコブ病が沈静化した事実があり、まして数十頭しか感染牛がいないと推定される日本や米国では、新型ヤコブ病にかかるリスクはほとんどゼロであることはすでに述べたとおりです。

安全の確保には費用がかかります。ゼロリスクの基本にあるのは「人の健康と生命は何よりも重要であり、費用の多少などは考えるべきではない」という考えです。至極もっともで、多くの共感を得ますが、あるリスクをゼロにするために無限の費用をかけることは不可能です。さらにリスク管理のために規制を100%守らせることも難しく、結局はリスクが発生します。それでは、どの程度のリスクなら受け入れられるのか。費用と効果のバランスをどこにおくのか。これらの点についての合意を得ておくことが重要で、これがないと小さなリスクに大きすぎる費用をかけたり、逆に費用の点から大きなリスクを放置することにもなります。そのためにすべての関係者が話し合いを持つリスク・コミュニケーションが行われますが、ほとんどの場合「ゼロリスク」と「費用対効果」の争いとなり、合意を得ることは簡単ではありません。

終わりに

米国は十分なリスク管理を行っていましたが、唯一の読み違いは、日本をはじめ多くの牛肉輸入国がたった1頭のBSE牛(カナダから輸入された牛)にこれほど大きな反応を示すことを予測していなかったことでしょう。日本は当初米国に対して年3500万頭の食用牛すべてを対象に全頭検査を求める方針を決めました。その検査費用は日本への牛肉輸出の総額を上回るという試算もあり、もしこれが実現すれば大変な利権にもなり得ました。これに対して米国農務省は「輸入制限は科学的な知見に基づいて実施されるべきだ」との見解を強調して、全頭検査の非科学性をけん制しました。前述のとおり、日本政府は2005年12月に20ヶ月以下の若い牛由来の牛肉と一部内臓製品に限り検査なしで米国とカナダからの輸入を許可しました。また、2007年に米国は国際機関OIEによって月齢に関係なくすべての牛肉を輸出できる国として認定されましたが、いまだに輸入条件の緩和に至っていません。

米国は、特定危険部位を徹底して取り除くことで新型ヤコブ病対策が十分であることを日本の国民にさらに説明することが必要です。日本は、安全は特定危険部位を取り除くことで確保され、「検査が白」が必ずしも「BSEでない牛」を意味しないという事実を国民に説明しなければなりません。「安心」は消費者が行政を信じるところから生まれますが、動機がいくら正しくても科学的に間違った説明を続ける限りその信用はいつか崩れます。科学的に根拠のない「全頭検査」を消費者が本当に望んでいるとは考えられず、慎重に十分な説明をすればヨーロッパ並みの検査、すなわち30ヶ月以上の検査で納得するのではないかと考えます。消費者もまた「ゼロリスクの夢」から覚めて、結局は消費者自身が払うことになる費用とその効果について冷静に考え、マスコミも科学的に正しい情報を伝える努力をしないと、BSEと新型ヤコブ病のリスクを混同して、ほとんどリスクがない新型ヤコブ病の恐怖でパニックを起こして過剰なリスク管理を実施する愚を繰り返すことになってしまうでしょう。

参考文献

  1. 英国政府BSE Inquiry
  2. 世界のBSE発生統計
  3. 我が国および世界のBSE対策の歴史
    http://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/bse/
  4. 英国で食用になった未発症のBSE感染牛の推計
    http://www.fda.gov/OHRMS/DOCKETS/ac/02/slides/3834S1_08_Ricketts/
  5. BSE検査についてのFAOのコメント
    http://www.fao.org/english/newsroom/news/2003/26999-en.html
  6. 2001年米国会計検査院報告への反論
  7. 米国でのBSEについてのFAOのコメント
    http://www.fao.org/english/newsroom/news/2003/26999-en.html